御茶ノ水という場所はすでに盛り上がりを失った、エネルギーの枯れた場所。ふたたびエネルギーを注入するか、そっと器をあてがってエネルギーが満ちるのを待つか、2つの選択肢しかない。
(このエネルギーとはエントロピー、情報や文化の偏差のこと)
前者の場合。
多くはデベロッパーとして前者の選択をする。抽象化された、一般化されたファッションを敷地にぶち込んで場を盛り上げる。しばらく経ってファッションのエネルギーが消えたときに新たな建物が場の栄養となってエネルギーになっていくかはわからない。本当はそうしなくちゃいけない。

後者の選択は難しい。経済計画は長くて10年程度の射程しかない。
しかも一度枯れてしまったエネルギーがまた満ちるのはいつになるのか明言できない。

そもそもひとつの盛り上がりの場を空間的に固定しようとするからこうなる。博物館的なメタ的空間が都市の特権であり、そのためにひとつところに留まることができたのが、一般化されてどこもかしこもメタ空間になった。だからもはや都市は留まれない、気体の平衡状態への移行のようにあちらこちらへと流れていく。(アーキグラムのウォーキングシティ、あるいは大阪万博のお祭り広場)

だが実際にはアーキグラムの思想は現在では主流ではない、立ち消えたようだ。しらないけど。察するに象徴的世界にそぐわなかったのだろう。「東京」という言葉が指す経済的盛り上がりが恣意的に動きまわってシーニュによって捉えられなくなっては経済的交換のための交渉も難しいだろうから。

問題の整理。

都市は留まれない、しかし留めておきたい。
このジレンマから現在の困難は生起している。
考えてみればたいていの物事はこのようなジレンマを持ってることにいま気づいた。肝要なのはグラデーションの付け方だ。
中心と周縁の問題に帰着する。


大都市が各衛星都市からエネルギーを供給するとすれば、仮に12の衛星都市があったとして、それぞれが5,6年もてば一回りで70年ほど持つことになる。この間に衛星都市が十分なエネルギーを回復するなら、
人間の寿命が80歳程度であることを勘案して継続的に運転する都市であるといえるだろう。

さぁ、課題に戻ろう。御茶ノ水がエネルギーの枯れた東京の衛星都市のひとつとして、エネルギーを充填する作業は根本的には必要ない。なぜならエネルギー供給が一周りしたら人間は死んで「新しい人間」ーその衛星都市の情報や文化を知らない人間ーが再充填されるから。だからこの再充填のための最低限の経済の確保とエネルギーの動力炉のようなもののメンテ、文化や情報の希薄化の予防だけでよい。

だからホントはハードよりもソフトが云々・・という流れはできるだけ避けて。

バッテリーの自律を試みる、ひいては全体のエネルギー運用の安定化を図るということで先述した御茶ノ水の動力炉のメンテ、つまり最初の選択肢の後者を選ぼう。