メモ

シミュラークル的現実は避けがたく唯一そこから逃れていると思われていた身体の重心感覚もアニメに回収されてきた。

いや、まだそこまでいってないか。

とにかくシミュラークル的現実を突き抜けるための身体と一方でのアニメのリアリティの強度をどうすり合わせるか。

アニメのリアリティとはキャラ立ちのことではなく、動き、運動の表象としてのリアリティのこと。
このリアリティはどこからくるのか、(リアリティとは何かという問題は意味が無い)それは個人的レベルでは陸上競技を経験したことが大きい。身体の重心を内省において意識化=客体化し続けること、しかしそれは他人に伝えることのできるものではない。(サルトルの間身体性そのものである)

一方で人間は大地に対して常に受動的であらざるを得ないこと、またヒューマンスケールを超えた都市で生活し続けることで、身体の機能と感覚がズレ続けていることが違和感を与える 
 ズレ は感覚のあらゆる方向で起こる、キャラの声、背景とのギャップ、陰影の軽さに対する動きの重さ、静止画と動画で見た時の速度の違い

ひとつの物、超越性からのズレではなく、それぞれ複数の超越性がインターフェースに現れている。

建築は両義的だ、近代の中で文章の中で生きる建築物を発明してからから建築は乖離した。

この同期的なものと非同期的なものを再び統合するのか、それとも…
少なくとも計画は両面で行わなくてはならない。



光(による瞳孔の収縮)も身体性のひとつの発露。映画と違いインターフェースが多様化し、ポータブルになるなかでこの光については映像は扱うことができない。