都市計画 宿題

エベネザハワードの田園都市は近代の労働力を集積する産業構造による急激な人口密度の増加と、それによって窒息していく都市での生活からのロマンチックな反動としての古典回帰を目指したものであった。
ハワードの田園都市がもつピクチャレスクという形容詞の起原はルソーが「自然に還れ」と言い放った(ルソーの自然は前社会的状態であり、人間の外的環境のことではないが)時代にまでさかのぼるが、これはハワードの時代においても未だ産業革命による人や資本の流動化に対して制御不能に陥ろうとしていた全体性(自分と社会の関係性をメタ的に眺める視点)が都市計画によって整備されなかったために保守化せざるを得なかったこということだ。だがこれは単に都市計画家の怠慢のせいではない、

絶対的な物資の不足から逃れる軌道にある時代では都市計画とは物質的な生活インフラを整えることで説得力をもっていたが、物資があふれるようになればこのような根拠は都市計画を支えられなくなる、

また都市計画とはどのようなものにしろ決定力を持つ者に対してなされるものであり、彼らは貴族や王族などの常になんらかのカテゴリー属していた。すなわち権力の発露である。彼らのような決定者が社会構造を良くも悪くも安定させることでその上の都市計画を静的に考えることができる。しかし市民革命による平等化、民主化によって決定機構が見えにくくなることで必然的にそれらの権力の発露である都市計画も根拠が疑わしくならざるを得ない。重ねてヒト・モノ・カネの流動化、都市の国際化によって国家という枠組みも解体され、既得権益層とのローカルな階級闘争マーケティングによって資本主義におもねる他に今の都市計画の存在根拠を見いだせない。



また明確な

それは今でも既得権益層やマーケティングという形で受け継がれている。

民主的というのに階級はいきている、



絶対的な物資の不足から逃れる軌道にある時代では都市計画とは物質的な生活インフラを整えることで説得力をもっていたが、都市が国際化するにしたがって

にしたがってただ生活インフラを整備することが都市計画の存在意義を十分に保証しなくなると、それまでの都市計画対象としてきた領域を外側へと展延していくことによって価値を差異化に生み出し続けることが都市を像として描き出すことの

都市計画における全体性とは常に貴族や市民などのあるカテゴリーに属する人々に対してであり、人権平等が実現されたとされる現代でもマーケティングという形で受け継がれている。
つまるところ現代の都市計画は

が理想都市を象徴として(によって)

別に都市が流動化しようが、全体性は組み立てられる。
都市計画の役割と存在意義、必要条件と十分条件