この前のメタカテゴリ論としての建築の補足。

この前のメタカテゴリ論としての建築の補足。
メタカテゴリっていうか、世界の描き方みたいなもんだと思う。
神話や理性、合理性と世界を表す言葉(ラング)が変わっていくのに並行して、モノ/言葉、主体/客体の関係の変化を描くのが建築だと思ってる。
てかこれが美術とか、神学の表現するものだと信じてる、ようは形而上の領域ってこと。

建築が他のメディアと何がちがうのか、やはり身体的プロセスが大きい、と同時にノエマとしてではない身体=メタ的生活=日常の領域にもまたがる。
リアリズムとしての生活と情報処理的メタ生活としての日常(=記憶−記録の共有領域)

日常は現実界と同様にどこにも回収されない一つの穴としてある(思い出す時に特定の「これこれこういうもの」と指示はできないが、提示されれば「これ」だと思いだせる)、この日常を軸にリアリズム的生活と情報処理的メタ生活に「ゆらぎ」をもつ。




その中で世界を表すラングそのものが堕落していることで、「表現」するプロセス自体が危機に瀕している、のか?
扱うべき形而上的領域を見失った、世界的規模でコジェーブ的歴史が終わったともいえる。

磯崎の続き読んでる。
日本が起源を問わずに、絶えず始原に回帰する形式主義っていうのは特におもしろくない。
ただ、例証のかな文字文化での有意味の漢字(語幹)と無意味のかな(語尾)の文節を「間」の概念を使って説明してたのはおもしろかった。
あと「みたて」と「とりあわせ」は疑問に思ってた建築における比喩と換喩の効果を提示してあって嬉しい。