昔のアニメやそのデフォルメは視覚表現としてのアールヌーボー的な感覚重視。
しかし考えてみれば市場主義の現代ではほぼすべてのデザインがそうだとも思ったが、
やはり「消費」される像がデザインを決めているとも言えるのでやっぱりアールヌーボー的だと思う。

つまりコミュニケーションにおけるネタ的消費ではない個人の感覚による鑑賞。

建築に関しても形態から考えるルートは2つある、ベンチューリの指摘したような流通した言語(看板)としての建築とアイゼンマンの論じたモダニズムの内的言語

アニメは子供向け→登場人物は感情移入させやすいよう子供に→等身の歪み→動きから表情へと表現の重点が移動→イラスト化←今ココ?

ところで心房はアニメを静止画の連続体に解体してしまった。どこで一時停止してもイラスト的動きは欠いていないが、動画として見れば動かない。いや背景は動いている。
基本構造として動かない連続静止画の合間に一瞬を過剰に動かすことでバランスを取る。マンパワーの配分として一極集中
心房初期 中期 現在みたいな区分もある
ぬるぬる動かすか、派手にアクション決めるか、


佐藤順一長井龍雪の背景とか


darker than blackのdvd買った、届くまでツタヤで借りる
ふと帰り道に思ったんだが、町中歩くとそれだけで僕は結構楽しくて、歩道に群れる鳩とか、道端の雑草とか、そしてそれをうっとうしそうにかき分け道行く人々とそれらの上空に屹立する雑多なオフィスビル群。
まちゆく人はコスチュームと立地からして多分このあたりに勤めてる人とか住んでる人。そういう生活が土地に結びついてる人達は景色として快い。

そんな中でまだ新しく建てる必要があるのかってこと。環境資源に悪いとか、経済の無駄だとかそういうんじゃなく、こんなにも便利で楽しくなってるところに建築工事は必要か。

西欧の建築家はみんなこの事情に取り組んでる、それは歴史的な建物が自律的に存在してるからじゃなくてその底に文化が流れているから。
今の日本も文化があるんじゃないのか、すでに現代の日本都市はひとつの文化を確立してるとおもふ。
建築するということは哲学したこと(ものの捉え方の概念による精密化)を物質的なものに変質させることだけど、別に人が使うような器だけがその対象じゃない。
むしろ今の日本(文化の醸成期)ではモノは残して情報を更新していくことが大事だ。
ARによる聖地巡礼とかもいいけど、やるならそんな狭い範囲じゃなくてすべての場所でなされるべき。