建築に求めるのはリアルだけ

陰影 通路 メディウムこそ空間化している。

非場所ではない、下場所である。言葉において音に当たるもの、意味のかけらも無い、が文脈においてパフォーマティブに意味をもつもの。
見えてる世界、すべてがスクリーンである。そこでカメラと人間の目における差異を語って実存を持ち上げたところでスクリーン的現実は否が応にも当の実存に食い込んでいる。
プリミティブな物質との相互干渉、触って確かめるレイヤーは残っていてもそれは建築のいつ部分にすぎなくなった。むしろそのレイヤーの使い分け、メタ視点に立つことでリアルさを感じる。
いやこの言い方は語弊がある。ただレイヤーの使い分けと言っても記号ー記号間の切り替えは差異による価値論に帰結し、虚無的だ。
むしろ建築におけるリアリティは記号的なレイヤー(言葉で説明される要素)間がモノを介して切り替わることではないか、

このときモノとは身体、あるいは神経によって知覚、記録されるそれ自体は無意味な刺激に過ぎない。
実際は遠くにあるものに視線を傾けることで手元にあるような感覚になるのと似てる 。
一方このとき身体の刺激を得る主体は意識化に置かれている、つまり感覚のオンオフは選択できる。しかし一度感覚された刺激をいかに知覚するかの制御はできない。
結局のところわかると思ってたことがわからなくなり、それでも全体としてみればわかっていたことになるという不思議さが現代のリアルじゃないか。