2013-07-10 日記

欲求と欲望のちがい
ぼくの楽しいこと 物語に関わること、新たなコンテクストを得ること

街に誇りを持つことは楽しくない、なぜなら他人の街と自分の街が不等価になって、純粋に楽しめない

楽しいことがしたい、

建物を建てるということはある場所に、ある人が、ある時代に構造物をつくるということ。
それはそれぞれに必然的にコンテクストを新たに付与することになる。

以降その場所を語るときにその人が、その人を語るときにその時代が、その時代を語るときにその場所が建物という一つの構造物を介して混線してあらたな物語(人によって語られる)が生まれる。 それが楽しい。
なら多くのコンテクストを含めばいい建築なのか?
概論はそのとおりだが、文章を考えるときのように、その背後には読者の予想がある。
どんな人に届けたいのか。そのマーケティングが必要だ。
その上で分かる人には分かるようなオタク的仕掛けがあっていい。そしてそれらは結果的に誤配されるかもしれない。

この見地に立つとき、建物の大小でその質的な差はない。
個人住宅だろうと地域振興センターだろうと観光モニュメントだろうとマーケティングと表現の一致という構造は不変だ。
近所の住人はなぜこの街に住んでいるのか、都市計画に賛同したのか代々のアイデンティティからか。
観光客ならどういう予備知識をもっていて、何を見たいのか。地域の固有の歴史や特産品
が考えられるだろう。



意図されたコミュニケーションと意図されなかったコミュニケーションのどちらが素晴らしいか、なんて問いは野暮だ。
デリダの誤配はフォネー主義へのアンチテーゼに過ぎないとするようなもので、それこそ誤配の可能性を消尽する行為だ。

誤配の可能性を残すべきだ、というのと誤配に過ぎないというアイロニーとの間には質的に海よりも深い溝が走っている。

中世の建築は建築物以外の装飾も空間演出に取り込んだ。
それにくらべるとむしろ現代は貧しくはないか。