メモ

藤村龍至のいう超線形プロセスもグーグル的建築も建築を世界とのつながりとしての合意形成の場として産み落とすことだと思う。
建築というのはその建物を実現させる人間達にとっての世界のあらわれだと思う。故に建物の良し悪しは同時に歴史の理解でもある。

とすると東が藤村を建築家の中からピックアップしたことはどのような意味を持つか。
「合意形成のまさに行われる場」を空間化、概念化したのは古代ギリシャの劇場だが、藤村の建築は「合意形成がまさに行われる場」ではない。非場所的に合意形成されたものであるという情報、記憶が建築にセットになっているだけだ。

流動性の低い社会ならその記憶が継承されもするが、近代の均された流動性の高い社会においては不適合だろう。
一方東に即して考えれば、前ポストモダン的な、前批評空間的な政治性と後ポストモダン的な言説の乖離した関係を解消すること、彼は批評家あるいは思想家であり建築家ではないという当たり前の前提があり、彼が藤村を選択したことは建築(の成立)を考えるにあたっては頭から外さなければならないのかもしれない。

美術の母から一芸術としての建築、そして構造体としての建築とサイズダウンしてきたと磯崎は言う。これはよく考えなければならない、とくに産業革命の後の構造体としての建築は現在たいへんつよいちからを持っているが、あくまで近代の縛りにおいてであることについて。