建物が建つこと、それは図面の上でひとつづきの大地に線が引かれることであり、生活界では壁によって囲われることである。
それはまったく概念を打ち立てることと変わるところがない。

モダニズムによってつくられた空間の「概念」はあたかも実体的に存在するかのように扱おうとし(様式の漂白)、空間自体を建築によって生み出すかのような動きを見せたが、20世紀の思想の激変によりあるいは脱構築主義的思想によって空間は差異的構造でしかないことに行き着く(ミースなどのユニバーサルスタイル)。21世紀においてはこのような差異を率先的に取り入れてゆく、あるいは異化効果として異なるシステムを衝突させるようなプランが生まれる(ポストモダン以降)
しかし上のような歴史主義/構造主義、あるいは構造主義脱構築主義の対立も長い目で見れば多くの西洋建築史によって教科書的に語られるような超越的/非超越的の対立のパラフレーズでしかないように感じる。

このような時代整理の上で今回の設計課題を考える。
それは
1、建築を建てることによって生じる象徴界での役割と世界内存在の実存世界とのギャップが不可避的に存在すること。(極論すれば宮台の援交フィールドワークによる建築家の否定につながるだろう)

2、それでも建築を建てようとする意志と向きあう事、これは俗的にはグローバル、ローカル両面における都市間競争に駆動されるものであり、より抽象的には東京計画1950のようなイデオロギーユートピア的想像力である。

3、我々は現在という時代において上の1および2のような状況はすでに暗黙裡のうちに承知しており、建築(物)を欲望する主体の微調整によって島宇宙化する(テリトリーの設定による他者の疎外)か、さもなくば一過性の欲望の表れとみてより軽薄にその表現を消費するしかない。

しかし私はそのどちらも選ばない、今回の設計物において人々は自らが措定する建築の象徴としてのイメージを実存的イメージ(象徴化されない=言葉にならない記憶、イメージ 光、音、匂い、感覚など)によって揺らがせることで、欲望する主体を反省させ続ける。

誰かの心地よさは誰かの犠牲の上に成り立っており、なおそれでよい。
弱肉強食ということではなく。
建物ができてから真の建築が出来上がることを再び掲げること。