東と笠井の往復書簡の本読み始めた。
2002年頃から始まってるのだけれど、これが十年前のこととは思えないほど新鮮。
動物化するポストモダン」や「サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか?」での中心命題であるシンボルでもイメージでもないエクリチュールがここでも論じられている。

建築においても無論適応可。
ポストモダンの能天気な引用によって表現する当のものと引用されるものの関係が逆転している。具体例を出せば大手ファミリーレストランアメリカンスタイルは既に「アメリカンな様式」ではなく「ファミリーレストランの様式」になっている。帝国劇場がお風呂屋さんみたいだ、と揶揄されたのと同じことだ(事実はお風呂屋さんのほうが帝国劇場を模倣している)。
これを単に無知による問題と断罪することはできないという東の意見には完全に同意する。

ポストモダンの能天気さはかつてとは異なる位相で現実を回すロゴスとなっている。
ここで大衆に引きつけている点でも東に胸がときめいてしょうがない。

妹島の建築が受注される際に写真による当の建物の体験から遊離したレイヤーでの記述、ガラスの透明さやオープンネスを期待されるのも、消費社会の中で流通の中で存在する建築が建築(物)においての建築を遥か彼方に置き去りにしているからだ。

建築においてむしろ厄介、あるいは希望はあくまで実現した建築はモノとして現れるということであり、非場所的言論空間によってモノ自体(という言い方ももう通用しないのかもしれないが)が覆い隠されてしまうことはないと思う。

実際に喫茶店に大理石模様の合版が貼ってあったとしても、そもそもそれが何かの表現として受け取られていないのが現実における建築ではないか、これは正しくはインテリアの領域だが、総体的には建築がラブホテル化したと捉えていいだろう。

こんなことを書きたいわけじゃない。

「半透明なもの」は「マックの椅子の硬さ」に相当するものつまり、起源のわかるロゴス。