感覚刺激変数としての環境

メタカテゴリ論としての建築に際してグローバル化は障害となるわけではない?それとも乗り越えるべきもの?

東のタームで整理してメタカテゴリ論としての建築→郵便的超越性
グローバル化は部分なき全体と例えることは否定神学的超越性。

ある建築物をsiteのコンテクストから引きぬいて論じることは個々の建築物を等しく扱える場=言論空間を前提にするが、すでにこの地平は荒廃している。

経験的な話をすると、渋谷のピロティスケスケの建物みたいなポストモダン建築は歴史的にはなんの感動もないが(まぁ、共有されてた問題意識が違うから仕方ない)、そこを通るときは間違いなく目を引きつけられるし、感覚的におもしろい。

あれ、これってただ感覚的な面白さがあればいいってはなしなのか?

まぁいい、いづれにしろ感覚的な面白さは周囲の建物群も変数として関わる。
逆に言えば、これらの変数を勘案すれば言論空間で論じることができるんじゃないか。
要は建築物単体で扱うべきでないって話です。