メモ 景観設計のシンポジウム

シンポジウム 景観設計

内発的郷土愛と外在的郷土愛

景観における美を論じる際に生じる差異、長年その土地に身をおいて生活することで生まれる「内発的郷土愛」ー個人史による精神世界と外部と比較することで生まれる「外在的郷土愛」ーここにおいて比較することができるということはメタ空間が存在するということ比較する主体はこの超越的視座(歴史)に立つ

外から来た人間が感受する景観は美学的なもの、つまり棚田を見てそれを積む人々の姿を幻視する、その営みを美しいと思う感性。
その営みが真実である、迫ってくる身も蓋も無さを証明するための経済性。


生活と結びついた景観ー自生的形態


景観美について論じる際にその裏にある物語への欲望には慎重に避けねばならない。人からコンクリートへの図式がそのまま反転しただけでは場当たり的なモードでしか無い。
経済成長の物語が萎んだので一つ前に戻る、経済ではないものに価値をおく(これは80年代における過剰な商品化のバックラッシュとしてのオタク現象、フェティシュ化とパラレル)態度を正当化、つまりただの懐古趣味にしないための方策として、今までお金にならなかった景観をなお経済に位置づけようとする。しかし根底にあるのはやはりフェティッシュ化の欲望のように見えてしまう。

そうではない形はあり得るか、つまり懐古的な回帰思想でないかたちでオルタナティブな経済をつくること

もう一つは住み分け。ある部分は文化としてイミテーション(経済とは結びつかない)でもいいから残す。しかしこうして残したものには何の意味もない、なぜなら背後に物語がないから。



実は伝統の中には近代においても組むべき実利的効用が云々のタイプの話は技術という鉈で地域差をばっさり断つ。逆に言えばコンクリートも継承されるべき技術であり、例の機能主義のアポリアにたどり着く。

ここからが本題。内発か外在かという見方の差異は現代断片化した主体においては無効化するのではないかという羽藤英二の言説には同意。イメージが氾濫する世界であらゆる空間がメタ情報化されている、このような状況で景観と呼ばれるイメージは間テクスト空間に投げ出されるだろう。具体例をだせば、私は個人史のなかで和歌の浦の体験をプリセットされている。このコンフィグで見る景観はすでに純粋にその土地のものではない。かつては和歌(つまり言葉、父なる法としての象徴)がこれらを媒介していたが、いまはイメージがそのまま媒介され、流通している。

その土地に共感して得たイメージはもはや純粋に土地のものではなく、かつ言葉で共有できるものでもない。

とはいえ現状で景観的要素が消滅しつつあるのも事実だ、プリセットとしての原体験がなくなれば間テクスト空間は端的に衰退して他ない。