絵画からの建築 メモ

絵画と建築はどう違うか、建築は動き回れるので絵画と違って視点が一点に定まらない。
絵画における構図の概念は建築に輸入可能か、
そもそも構図は表面的な視覚構成だけではなく、題材(モチーフ)の関係性じゃないのか。(「イノセンス」の人間関係の上下を演出する構図のように


三次元的世界を絵にする→両眼によって引き裂かれる乱視的図像をモノカメラによる図像にコンバートする。
(補足 三次元的空間=両眼で「捉え物の見え方性」によって処理されて現れる世界=奥行きをもつ世界。
奥行き、目には見えないが論理的に導き出される、対象がしめるで「あろう」空間)

動き回れるといっても動線設計があるので絵画の視線誘導と同様の意味で構成できるのではないか。
視線誘導による動線設計。そのときの絵画の構図に当たる概念があると思うの。

そもそも絵画の構図にしても画面全体を一様に見渡すのではなく、画面をなぞるように視線を移動させる、と同時に「時間的鑑賞」が生成する(アッチとコッチを移動する)。
「時間的鑑賞」はアッチに何があったのかを短期記憶に残しつつコッチとの関係を論理的に構築された空間と現在(イマ)目に写っているイメージを重ねあわせて鑑賞するという行為の概念である。
(記憶にもシンボル的記憶とイメージ的記憶があるのに注意、英単語などの記憶定着には両方が使われる必要がある。追補、イメージ的記憶は情報量が大きいので普段はシンボル的記憶が使われることが多い、日常生活は図像で思い出せない)

これは論理的なプロセスが入るためにシンボルのちから(慣習の作用)が働く。
イメージのシンボル的配置、シンボルのイメージ的配置は図と地の反転(視点が建物の内外間で移動する)によって接続されイメージ=シンボルを経て逆転する、(あくまでイメージとシンボルは別のものであり、しかし入れ替わることで遡行的に両者が同一である瞬間が見出される。)


この視覚の運動(時間的体験)の快さを生み出すのが構図だとすれば、筋肉の運動の快さを扱うのが動線設計といえる。

だが動線設計のデザインが平面図で描かれるとき、三次元的世界(時間を含めると四次元)を二次元的世界(同じく3次元)に落としこむ矛盾が発生する。



まとめ 絵画にしろ建築にしろ、時間的鑑賞性は共通する。

視覚の運動性の快楽と時間的鑑賞はどういう関係なんだ?
時間的鑑賞において運動性の快楽が審級になるってことか、