メモ

時代の思想や美学が生活に反映されていく過程、それを「建築」するということと呼びたい。

セキュリティー概念の増長や福祉の外部化を進める思想があったのは確かだろう。
そして今はその思想ではない。

ずっと考えてきたのは記憶の作られ方。
ベンヤミン以来の複製技術と大衆の問題はインターネットやハイパーテクスト空間によって人間の隅々にまで浸透しつつ在る。

一方高齢社会において記憶の欠如、いわゆる健忘症や認知症などの「病気」も気にかかる。

キャラとキャラクター(人格)の二面において私の支配下から離れ得る、それでもコミュニケーションが生起する「場」においてはひとつの主体像に寄らなくてはならない。
そこではポストモダニズム建築の「流行」もひとつの解になるかもしれない。ヴェンチューリ。分裂的手法と名付けた磯崎。

注意しなければならないのはその「場」が中心になるのは近代的なテーマが没落したことによる相対的なものではない、ということだ。
あくまで技術的な変化がもたらしたベンヤミン系の問題が閾値を超えたためであって、ゆえに消極的分散ではなく、積極的分裂とでもいうべきものだ。

さて、こんなことを考えても社会に資することなくては言葉遊びに過ぎない。
思想は生活において実践されなくてはならない。

だから、たぶん、保存を仕事にしたいんだと思う。
どんな、何を、それは「場」に従う。結局は地方自治ファシリテーターのことなのかもしれない。それならそれで和歌山の公務員になればいい。本気でそう思う。
アカデミーのダークサイドは横目で見てきた、設計は唯物論より唯名論的な見方の人間なのであまり興味が無い、これは本気で和歌山行くしかねえな。
大学は一応卒業しておくのがいいとされているのね、ハハハ。