学校課題 メモ

抽象と具体で考える。技術と思想の関係。

学校建築。
社会化を考える、脱社会的存在を無視しない。


近代の理想モデルによって統合し、統治する思想にもとづいて作られた「学校」概念。
装置としての天皇と同じ国民性(トップダウン
→競争(ボトムアップ/不良 
→ゆとり&平準化(モデルの放棄/クラスのゲーム化スクールカースト
みんなちがってみんないい みんなの違いはどうでもいい キズのないつるつるののっぺらぼう→トラウマ羨望 ネットジャーゴンの使用による
→社会が、1983年の鈴鹿市の隣人訴訟に始まる法化社会化、90年台からの監視社会化などの象徴化がすすむにしたがって逆進的に学校空間は
象徴作用の弱体化がすすむ。
おそらくは激しい社会の象徴化のしわ寄せがきてるんだろう。

開かれた学校は監視カメラの設置された通学路と表裏一体である。ゆえにこのサイクルを止めない限り、学校の本質的な違和感は消えない。

学校に象徴を取り戻すと同時に、社会に非象徴的イメージを生み出す、非モニュメンタル。と同時に近代的学校概念=モデルプログラミングの施設としての学校を刷新する。

学校内、象徴空間のイメージ化。モノよりコト性、モノの厚みの無化、偽の透明性、表面性。
イメージの象徴化。

イメージとは現前性(時間)の記憶であり、象徴とは非時間的記憶とも言える。

社会にイメージの豊かさを取り戻したい。
学校には非社会的存在を擁護する空間が欲しい。
再帰的な社会へのコミットをして欲しい。→複数的動線によるイメージの複数化。しかし教室は象徴的
このとき学校と周辺との関係はいかなるものか、
商店街ー学校。
表通りー学校。
線路ー学校。

イメージは時間的記憶で、そのときは記憶している自分(刺激を感覚している)を排除できない。
イメージを絵にするとき人(記憶している自分)も含めて描くことでそこに時間が生起する。

比喩は異なるものを同じもの(シニフィエ)として、換喩が近接さによる置き換えとして理解して。
イメージは同じものを異なる様態で見ることと今のところ理解している。




共同体認識、ギャル文字の共同体とパラレル
徐々に象徴機能が弱まっていく。
ゆとりの問題点は 常識=教養=コミュニケーションインフラがない、基盤の偏在化(宮台の島宇宙化)しかしこのときネットは不完全であった
生活インフラを家族を超えた国が提供する近代、近代人を前提とする。
はじめての社会化とともに脱社会的存在(宮台)になる。
すべての世界は自己の前に仮に現前するに過ぎない、ゆえにこそ再帰的に社会にコミットする。最終的な身体の自由を取り戻す。

法化社会、象徴化社会、監視社会によって考えずに処理できる、建築の物質によるインフラ設計
しかし、象徴による強い意味の束縛はイメージのダイナミズムを殺してしまった

家のCM
家の中身とは関係ない、家をもつ事自体をひとつの通過儀礼とする(頼りになる上司)
経済的な数字の宣伝