敷地は堤防、川という異界を隠す壁であり、大地の瘤でもある。
その上に建つ建築物は両側から欲望の眼差しで貫かれ、白く空虚な壁面には欠損を補うべく見る者(建築物の境界線の外にいるもの)の欲望が投射され、跳ね返る。
ガラスによってみえる場はいわば劇場であり、それを囲む建築の内部は劇場裏にあたる。

劇場裏の高揚感とはつまり、騙すことにある。相手は他人の姿をとった自分だ。
みることは同時にみられることであり、その選択権を持つ自分はまさに世界を手中に収めたかのような興奮と快感がある。
またこの視座は一度手に入れれば建築物の外にいても展開可能だ、なぜなら内部と外部で交差する視線はヒエラルティックに内部に主導権を与えるが、みる=みられるという体験においては2つの視線は同質のものであるからだ。