散文 フラグメント 四月二十七日

そして問題はもう一つ、制作会社に情報を出させるには集めた批評が彼らにとって価値あるものにならねばならない、この文脈が未だ弱いのです。「なにもしらねぇシロートがガタガタぬかすんじゃねぇ。」みたいな反応を示されたとき、いやいやあんたらのほうが分かってないな、みたいな装備がまだできてない


クルーグマンミクロ経済学
キャズム 悟性 ラガード ヒッピー カンテラ アポリア
思いつきだが、芸術家たとえばピカソの絵を評価するとき(風説とは独立して)おそらく一作品だけでは評価に苦するだろう。なぜ、その素材で、なぜその筆跡あるいは筆跡がないのか、どういった背景がそこに覆われているのか(このような疑問を伴わない評価をこそ、作品の株券化というのだと思うのだが)。そこでピカソの別の作品をみる、分からない、又別の作品をみる、みる、。みる。そうしてできたピカソの像(これはピカソに、みるひとによって作り出された者で、単なる虚像でも実像でもない)との関係において存在し、本当の意味でみられることができるはずだ。
今の作品が作者の手を離れた(ように見える)のち、その作品だけを作者性から切り離してみることができるような錯覚が問題では

つまりわらしべ長者(あるいはオオカミと香辛料モデル)的にどんどん欲望の過密の差をシフトしてゆくのが基本だとすれば、商いは欲望の奴隷でしかない

アニメーションの言葉で語られる批評、そこで使われるアニメの言葉から見るアニメの立場。作品の批評的読解→アニメ成分を抽出してアニメ環境を描き出す。その上に新たな文化として厚みのあるアニメ像を描くことアニメ会社からのアンケート実施。任意でのアンケート結果公開プラットフォーム
地方で放送しても、放送にかかる金を回収しきれないのです。

すこし落ち着いてみるとこの消費者主権モデルはようはテレビの視聴率問題を内包しているんじゃあないかと、制作者のメリットとしては市場動向が分かる、発展的にはインカムを分配する。消費者のメリットとしては自分の意見が作品に反映される(ように思える)。ニコ動的なグルーブ感

明日の抱負
いやはや、すっかり足が遠のいていたが中々イーブンにはまわせませんね。学校、同人、M通信。三つのトライアルの共域をつめていく感じでやっていきたいと思います。
語学やってないので、GWからリセットしていこう。うん。