誰のための建築か? 
大衆消費の為
建築趣味の為
いやし、おどろきのアートとして


思想、哲学が不要な人々

消費大衆は思想や哲学を必要とするか

しない場合、彼らは幸せであり、問題は彼らをいかにドライブするか(占星術


する場合、ほとんどの人は必要ないように見える、学校の同窓は消費社会でそれなりに幸せそうである
サブカルチャーがあってとくにそれを言語化して体内に取り入れるわけでなく、即時的トライブに身を預ける。
なんで好きなのかとかどうでもいい。→欲望に対する当座の満足供給の枯渇
潜在的な言論空間の表出、.reviewの活動→島宇宙化の問題→これもまた占星術

建築の位相
下手にアートイメージが強い、建築家に頼むと高く付く
イメージ消費としての建築物が主流
建物を建てることが自己表現として捉えられている、
西洋では建物は大陸横断の可能性に常に晒されていたため各建築における権威が付け加えられなければならなかった(ネイション)国家と社会を考える上で都市に現れる表象としての建築は社会思想、実存思想と結びついている

日本では国民国家として長く成立して明治になってようやく様式や思想を体系立てる(西洋のやり方で)必要が出た(中谷先生、)。しかしその後の20世紀の2つの戦争を通じて日本のネイションはうまく説明されていない。
つまり、日本において、(西洋の)思想や哲学と結びついた建築はかつてあったのか、直感的になかったんじゃないのか?

西洋的主体像を措定した思想、哲学、あるいはアートでもいい、と結びついた建築なんてものを日本に建てること自体倒錯したアプローチなのではないか

日本の思想について知らねばならない。

つまりぼくが作りたい建築はネイションについての建築。なぜならそれはグローバル化する現代では必須であり、日本的土壌で育ちつつ西洋的主体を仮定されるというダブルバインドにより引き裂かれようとしている「私」の問題でもある

一歩引いてみて、ほんとにこの「私」の問題が西洋対日本の図式が疑問に思った。なにかしら世界的規模の、例えばマルチチュードの、普遍対特殊の問題かしら、

こういったことを抽象的思考で捉えようとするのが思想、だから思想のある建築を作りたいんじゃない、あくまで引き裂かれた「私」の建築を建てるために思想を学ぶ

「私」の建築とはいったものの(以下長いので私建築とする)、どういう定義のものか?
ちょっと考えて、生き方について納得できるもの、というのがでた。
他人や社会についてどういうスタンスであるか、国家をどう捉えているか、そういう自分がどう評価されたいか?という確定された未来に則って建てるのじゃない、自分はこう考えている、という思考の表象としての建築のことである。