藤巻の絵巻物は彼の頭のプロセッサーによって想起されたものを表象したものである。それを我々が見る時、2つのズレがある。一つは表象と内容の素朴な共有不可能について、もうひとつは主体の時制の違いについて。

後ろ、私達がこの絵巻物を見る時、藤巻の想起(された表象)を手がかりに場面としての隅田川へと空間設定を書き換える。しかし、当然ながらモノから意味へ、そして意味からモノへのベクトルは非対称であり、同じ物を示すわけではない。「ひとつのリンゴ」はひとつではない。ほんとうの意味での問題は、にもかかわらずひとつの(!)りんごに感じてしまうことだ。

これは岡崎ーカント的に言えば偽の問題で、空間というのはそういう仕組であり、相対的な問に過ぎない。そしてより高次の空間においてはそれは無化されてしまう、という。だが相対的という語で人間の感覚は納得出来ない。

絵巻物の鑑賞者はそれぞれに隅田川'をイメージし、同一ではないが、ある名を持つ「〇〇美術館」という観念の下に同じもの性を持つ。それはギリシャの民主主義が劇場を市民形成に利用したのと同じ構造だ。
今回の美術館では美術館内外の人々個別に同一性のノンを突きつけ、その上で、それでも言葉の観念のもとに同じもの性を持たずにいられない。そんな空間を志向する。

同一性を破壊する要素として、観念化にたやすく従わない音、におい、触覚(タッチ)、色彩などの感覚を用いる。
同じもの性を建築におけるいわゆる深層部分において発現する。ここでは機能と言い換えて差し支えない。


記憶の中で思い出すのは感覚器官への刺激が強かった部分であり、理論的な、観念的な理由は常にあとから付け加えられる。
一方現在の中で感じられるのは既に設定された理論的、観念的空間のフィルターを通じてであり、スピノザ的なコナトゥスによる変様による良い、悪いでしかない。

このような相互の入れ子構造になっている。これをどう建築化するか

あるフレームAにおいて、それ自体を脅かすような特異点的な要素Oが入ることによってそのフレームAが解体され、瞬時にメタ的なフレームA'が再構成されるとしよう。そのときこの新たなフレームA'とフレームAとの関係がフレームAと要素Oとの関係と相似形であるとき、すなわちラカン鏡像段階である黄金比的関係、同一性と同じもの性が把握されるのではないか?