「社会」について考えた
人間は社会のなかに生きているっていうとき、それはざっくりいえば経済の交換原則のうちにいきていることと思う。

僕が社会に生きる息苦しさは端的に歩道に現れる。車によって安全がおびやかされているのに、まるで歩行者によって道路が危険になってるみたいだ、道路で 自由 に歩けない。
あるいは街頭や電車のなかでヨーロッパでは大道芸人とかがパフォーマンスすることでその空間で笑うことが許される、けど日本の町で笑ってたら気味悪がられる。
こういう理由で僕の 自由 が疎外されているとおもう

こういう主張は決して自己実現がどうこうというタイプではない
これは交換原理において逸脱=贈与を認めない、ホームレスとかが贈与の典型例でこれを僕たちは町中で見ても無視する。
科学がその起源について問わない、ことと同じ構造。
そもそも起源なんてものは超越論的な概念だけど、これを無視してきたのは東の否定神学的態度だと思う。

たぶんムラ的な強固な共同体が維持されていた理由は祭りがあったからだと思う。
なにかを「信じる」ってことは論理じゃない。祭りは全然論理的じゃないけど、そこにコミットメントさせる力がすごい。ある掟あるいは法=ムラ的共同体=アポロンが一方にあって、他方に慣習=祭り=デュオニソスがある。これがセットで本当の社会。

今の社会には祭りがかけている、「世界」のなかで歩行者天国が抑圧されている。
フィクションは資本主義経済に絡め取られて機能しない、建築になにができる?

去年の設計演習でやりたかったのは、交換の下に屈服させるやり方じゃなく、ホームレスを認めること。公園も「そこ」で自由にふるまうよう設定するんじゃなく(それじゃ交換に含まれる)、公園の自由さがその周りに侵食していくようにしたかった。そしてそれは生活面の意味で虚構的な生を送っている学生によってフィクションがリアルをハッキングするように展開させたかった。