メタカテゴリとしての建築

以下メッセージを精緻化する。
物体そのものと過去からの引用&換喩的意味作用によるシミュラークルとして意識に映る物体のダブルミーニングが単数的実存/複数的実存、象徴/イメージに対応している。

動かない=場所を固定された建築が即、唯一の建築とはならない。写真や動画などのイメージに射影されて複数の経路を通って流布する。
とにかく言いたいのは磯崎のように動かないことは建築にとって欠点ではなく、言葉を操る主体S=S(SはSである)として扱うべきだということ。

その場においては「それ」が唯一無二であるように感じながら、経験的にそれが複数化される未来を予測される(=帰納
ここではイメージが象徴として結晶化し、一方で象徴作用によってこの結晶が再びイメージ化する往復運動がある。実に不思議だ(笑) しかしそうとしか言いようがない。

ある部屋が世界=全体として在り、かつそれを部分化する全体(のようなもの)がある。
全体(のようなもの)としたのはこれが遡行的にみて初めて全体になるからである。(カント参照)

建物は部屋から始まり、ゾーニング、階層レベル、ビルディング、敷地とカテゴリーが展開していき最終的には物理的宇宙全体、そして全体(のようなもの)としての世界に続く。

このようなカテゴリー間の関係性によってその関係性そのものを語るメタカテゴリー論としての建築はルネサンスにおいては人ーミクロコスモス/世界=宇宙ーマクロコスモスを共通の生成原理において描き出すことで短絡させることができた。しかし今はそれができるかい?

まとめ、メタカテゴリとしての建築とは世界そのもの=世界との関係性を表現するものとしてある
今の時代、ネットワークが行き渡っている時代では線形的な世界像ではなく複線的な経路それぞれの世界がバラバラに存立している。
→それによって複数の世界が帰納的に先取りされて現実としか思えない仮想をあえて現実として生きている、感覚優位。