僕が建築で表現したいこと。

平田オリザの新書からの受け売りだけど、表現とは世界を写しとること、みたいな書き方してた。

おおかみこどもみて思ったけど、極論して表現が成立することは写し取られる世界の理不尽さ、不条理さ、あるいは神を写しとることなんだろなー、と漠然と。

花がおおかみおとこ=不可能なもの、記述不能なものと関わり、彼自身ではなく、それとの文字通りの子供との関わりあいに取り組んでいく。
そこでの具体的な問題として立ち現れるのは障害者の差別だったり、シングルマザーの子育てや環境破壊問題だったりするのだが、このアニメはプロットでこれらの具象問題でなく、より抽象的なレベルでの不可能なものとの関わりかたを扱おうとしているように思う。
だからマージナルな言葉で分節されない不可能な存在であるおおかみこどもはどうやって狼=原始の自然or大人=第二の自然に生きるものになるのかという語られ方になるんだろう。

このような意味での説得力が結局は表現の強度と呼ばれるように思う。

メッセージの有効性、表現の強度、対象の範囲の3つのカテゴリーで語れるのではないか、
このうちメッセージの有効性は共時的なものなので、過去の作品を真に評価するには想像力が要る。

はなしは建築の設計に戻って、雑駁に複数的実存と単数的実存の重ね合わせの肯定が僕が建築で表現するメッセージになる。む、多少おもしろくなってきたか。