things to do まとめ

正直怒られるのが嫌なだけなのかも。
ちがうか、だったらもっと早く始めてるか。
てか未だにやりたくない理由ってなんだ、思うようにできないからか?
この時間になると夕飯とかぶるので集中できない、という理由付けがある。
つか作業するのに人がいるのって落ち着かない。期限と現状について聞かれるのがめんどくさいから。





今日、明日、明後日で提出物作成
しんどいことをやります。
1。日程確認
2。資料入手
3。平面、断面、立面、配置、詳細



さてと、さっき散歩で考えたことまとめる。表現は何か?みたいなことってようは世界、現実とは何か?という命題に帰着する気がする、つまりは哲学、精神分析の領域っぽいので門外漢の僕は押す。
それより建築で表現する事はどういうことかという表現のインフラ部分で考えてみる。建築である表現=措定されたシニフィアンをしても今ではすぐさまそれは視覚のいちウインドウに押し込められ、変形され、圧縮されてしまう。
単一的実存の記述としてのデザインは弱められている。(「私」はこれが好きである、ゆえにこれを消費する)

複数的実存(ほんとの「私」の即時的な場のちからによって生起するものである)を認めるか否かが僕のデザインに対する信頼の問題の核である

複数的国民性(同じ日本国民であっても日本の歴史や文化は知らないし、したがって日本的表現に頓着しない)ことが実際に現れているかは別として(意識に言語化されてないが、少なくとも日本で生きている上で海外に比べれば圧倒的に日本的意匠に慣れ親しんでいるだろう)、論じられたことはある。このこととパラレルに考えてみるとクリアーになるかもしれない。
つまり、複数的実存は実際に展開してるかは知らんが、議論を呼び出すような構造にはなっている、ということだ。

日本的意匠の足跡をたどるとコルビジェの弟子たちの前川、丹下達(吉坂はこれに関してあまりコミットしなかった)や村野によってうまいことモダニズムデザイン言語と交わることができたと思う。でも結局その嫡子どもが日本に普及することはなかった。なぜだ。

今数秒の思考で思いついた浅薄な理由はモダニズムによって日本の意匠のイメージ性が整理されすぎてしまった。
つまり初期モダニスト達の生み出した理論はモダニズムの言葉であり、日本人に向かって開かれてはいなかったのではないか。

これを考慮して、複数的実存が問題になっているのはモダニズム的、西欧的、象徴のちからで考えるゆえに問題になるのであり、イメージで考えればごく普通の現象なのではないか?ここで再び象徴化するのではなくイメージの言語を取り戻すべきなのではないのか?

中沢新一とか梅原猛とか読みてーなー