11月21日

随分前のことだけど思い出したから追補。

図面のトレースを授業でやってるが、ビハインドがだいぶ重なってきた。
素人が最初上手くできないのは当たり前のはなしだけれども、技術がどうのということではなくそもそもトレースとは何を目的としているのか感覚的に分からなかったので全く作業が進まない。
トレースを進めるにあたって必要な数字かどうかの判別が鈍い、というか必要という概念が挟み込まれることが自分でもよく分からない。

帰り道に考えていた、図面がビルドアップのための単なる参照項、データ?のブリコラージュ、無機的な非人間的な真実のようなものであったならば、PCで各変数を代入してプリントアウトしたものの方が理にかなっているのじゃないか、非人間的なものを人間がトレースするなんて倒錯してるのではないか、と。
しかし現実に作用しているのはそこに載せられた数字や幾何が指し示す意味だけではなく、確かな作家性が図面に宿っているだろう。
もしそうであるならばその作家性をこそ、トレースを通じて垣間みることなのではないか。
だがこの作家性は作家なき作家性でなくてはならない、模倣されうるものはアウラとは呼べないから。
実際に建てることを念頭に置かれた図面から模写することを自己目的にしたトレースによってくみ出される作家性は質が異なるように思う。そこで僕は図面の未来性、過去性を時間を非線形に扱うことでキャンセルし、この異なる両者の作家性に共通するものを引き出せるのではないか、と考えた。そこでマチエールの層が時間的に異なる行程を経たことは解るものの、その順序は解らないこととアナロジーに見立てて先の目的が果たされるものと信じて一所懸命に課題に取り組んでいるところである。
火曜日は休日らしいので今日は駒場にジャーナリズムと批評の交差点を聴講しに行くことにする。