私はフェイトと同じくプレシアをなんとかして助けたいと思います

第五記


劇場版なのはをみたとき、私はプレシア擁護派であったという告白をしたのだけれども
今となれば、それも巷を賑わす数々の虐待事件あればこその心証だったのだろう。
であるならば現実を変える力に換えるべく、このモデルから少しでもすくい上げられるものを精査してみたい。


夫の存在がはなから欠けていることは、子供を父と母から成る家族で囲って育て上げるというプロセスを何らかの理由で果たせなかった場合が提示されている。
現実の虐待事件もかつて離婚し親権を持ったシングルマザー又はその後、子供を連れて再婚した家庭内で発生するケースが(マスメディアで報道される範囲では)非常に多い。

ここで当然のように父親、男性の責任免れ、そして女性の子育てへの強迫観念に近い社会のパラダイムの問題が考えられるだろう。
しかしこの問題はフェミニズム運動や社会的弱者救済の機運に流れている今、BI導入論などでも度々論じられると思うので、ここでは触れないでおく。

さてプレシアはアリシアを「取り戻そう」とすることから物語が始まるのだが、この奪還衝動に向かう前に彼女の中には事故を起こした者達に対する復讐心との葛藤があったはずだ。にもかかわらずロストロギア事件に最短距離でつながるのには前述のような女性抑圧のモラルといった背景もあるのだが、技術的に、認識論的にないしは形而上的に娘の存在があったからだと思う。

最愛の娘と再びともに過ごせる可能性がある限り、他のことにかまける時間はなかったのだ。この時点ではプレシアとアリシアの幸せは矛盾しない、しかし複製した存在は決してアリシアではないことを知って、彼女は二度目の娘の死を経験することになる。
技術的な選択肢を選びつつ、中途で途絶えてしまったことで運命<フェイト>の分岐が起こる。

プレシアの中のアリシアの存在は消せるものでも、消すべきものでもない、だが実際、技術的にアリシアの存在は失われてしまった。この在るハズのものを消してしまった慚愧の念がこの悲劇を生み出すわけだが、オルタナティブとして作品はフェイトとの新たな家庭を用意していた。これはアリシアの願いという救済なのだけれども、プレシアには選べなかった。
自閉したシステムではエラーは発見できない。プレシアには外部がなかった、唯一の提言を与えたリニスでさえ彼女の使い魔だったのだ。
かつての外部機能を果たしてきたものは近所づきあいであり、行政やNPOである。
これは現実のプログラムに対して現実の外部装置を当てた場合で、これを置き換えれば
作品という外部は親が営む子育てというプロットに接続することによって、リアルタイムでエラーを訂正する冗長性として機能する

今の私にはこの程度しかフィードバックできず、今を変えることはできないかもしれない
でも未来に希望を持つことは、できるような気がする。


明日の抱負

外を出歩いて帰ったら、腰を痛めて立てないのは誰かの陰謀でしょうか、
それとも神が与えた天険でしょうか。
どちらにしろ明日は、当日参加おkな東工のシンポジウムに足を運ぶ予定。
歩ける範囲で行こうと思います、ハイ。