建築と情報の課題 補足付き

第二十一記


情報を過去の結果(データ)の集合と捉えて、藤村龍至の超線形設計プロセスのようにアルゴリズムの要素のとして扱い、評価を構成する要素としての情報を建築計画をできるだけ公開することで情報の非対称性をキャンセルすることで一定の共通する価値をプレゼンテーションする。というのが一方にあるとすれば、情報をエントロピーとして、エネルギーの一形態として捉え、建築の、自己の存在を浮き出させる、自然科学的にいえば質量を圧縮してゆく作業があるのではないかと考える。

補足
エントロピーは本来確率に依存するものだが、建築における体験あるいは人生は生の一回性、すなわち世界存在の時間の不可逆性に根ざしたものであり反復できないと考える(連綿と続く日々の中で感じるときと感じないとき、ではなく「ふとした瞬間」という断絶された非日常の一回性のなかで存在を感じたい)。存在「自体」に貴賤はなく、したがって究極的には存在論としての形状は意味を何ら持たない。ただintroductionとしての視覚や文脈のみを内包するのみである。ゆえにこの場合の建築が持つエントロピーはただその一回において「存在」せしめるか否かのデッドオアアライブ的なものであるため、変数として確率を含まないエントロピーである。適当な表現が見つからないが、そこに含まれる変数はさしあたって個人の経験(家を建てる経緯、設計相談、施工風景の視察etc)、それに派生する愛着である。

一方で形状の持つ建築的メソッドとしての機能は反復しうるので超線形プロセスにおける人間工学的なプロセスはこの「機能」としてのエントロピーを大きくしているともいえる。
このように超線形プロセスとこのエントロピーによる質量の付加は矛盾しないはずである。
ただ超線形プロセスがまだ普及してないせいか、ともすればキャッチーなフレーズであるデジタルな処理という面がクローズアップされやすい気がする。
さらにいえば先の時間に向けて愛着をデザインするのが設計なのでは。と現時点では思う


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