記憶についてのメモ

身体のフィードバック的記憶は時間アリ。
論理的思考は一瞬について考える、視覚もまた一瞬である。

中沢新一の「緑の資本論」でモノのアラワレについて書いてあったことを思い出して、モノ(客体)ー主体の他に第三の力の流れとしてモノノケ(それ自体は実体ではなく、状態としてあるバランスの崩れ)を見る。

思いつきだけどこの第三の力の流れって記憶と捉えることもできるんじゃないだろうか。
ツクモガミのアラワレかたもモノに宿った記憶の噴出のなんじゃないか?
自分の経てきた時間的ルートが他者とクロスする可能性。
あらゆる過去が記録として外在化され、共有可能となることで主体性は薄まる。サマウォのようなアカウント=人間の能力ともなりうる。
そんな世の中で記憶は主体でも、客体でもない、それらがすりかわるような
「状態」としてあるのじゃないか。
記憶がなければ、赤ちゃんの頃のようにモノと主体は分かたれずに共に在る。
近代においては記憶が主体のもとに統御されるべき対象だったが、フロイトの言い間違いやアルツハイマーを考えれば、人間には不可能な所業のように思う。


長期記憶が残ったまま短期記憶だけ失われるのがアルツハイマーの特徴であり、社会的に同一と思われていた自己、シニフィアンが裏切られていく。他人にとっては数分前の自分と今の自分が同じ人間と判断されているのに対して自身では数分前の自分は明らかな他者として現れる。

しかしこんなことは実はよくあることだろう。記憶の不正確さは記録に比べれば明白だ。問題は個人的な領域か社会的な領域かということに尽きる。

つまりアルツハイマーは個人の病気ではなく、社会によって生み出される病気である。