8月17日

オカルト学院とは対照的に舞台の名前は明かさず、実在の物理的のみを引用するけいおんでは、ある種の通じなさをエンジンとしてコミュニティを強化していく流れで捉えてしまうと誤りなんだろうね。
強化ではないとすれば拡張かな。
ありとあらゆるコミュニティへの参画可能性を偏在化するためには身体性が必要ってことかも。
通じなさをネガティブな効果というよりは差異の意味で捉える方向か。

多層化してゆく現実は今までは身体の唯一性によって統合されてきたと考えられてきたが、聖地巡礼の巡礼者の括弧付きの「京都」は体験もできるということだろうか、だとすれば「京都」はすでにキャラからも世界観からも離脱しているということ。
なぜならば身体をもたぬキャラには触れることはできないから。

これがキャラからその関係だけが抽出されてイマージュに定着したと考えれば構造主義とも。
なら脱構築はそのイマージュの無関連化かな。

現前、現在とは何か?を問うた時、必要以上に膨れた言葉の輪郭の呪いを引き受けねばならない。この呪いを回避すべく現在を責任が行使される状態と定義したとしよう。同様に過去は責任が依拠する概念であり、未来は責任の必要条件である。
フィクションを仮想現実、現実のテストとすれば生産力の成長によってテストと実施のスパンが短くなることは明白。
すなわち想像と同時に創造できる生産力を身につけた時、未来は葬送され、責任は消失し、物語は役目を終えるのだろうか。