8月4日

僕たちはどうしようもなく物語(ナラティブを)求めざるを得ないようだ、かつての作家性=物語の等式が成り立つ時分語り主義から集合体としての非作者トッしての作者にその携帯が変容した今日でもそれは、ポストモダニズムの呪縛は、変わらないように思える。(無物語もめた物語の一種である)。
また物語とはイベントの連続によるある程度の合意がなされる現場であり、それは非論理的という論理、ディスコミュニケーションというコミュニケーションなどとパラフレーズされる。
このような無数の物語は、以降構造と意味合いを等しく扱う、さらにクラスタに束ねられ、比較され、相対化されることで価値を生み出してきた。
しかしあまりにラディカルな技術的、それに伴う認識的人間の理解の振幅は歴史の丁装を保てない程に動揺し、その構造からタイムラインを除こうとしている。

物語は人から取り除けるか?(反語)
構造における記号→責任のベクトル
価値は時間から遊離できるか?(反語)
時間と空間の在り方

時を超えた価値として物語づけされたものがイデア性であり、建築、物(建築物)とされるもの。
そこで時間のセリーにおいて永遠、連続、無時間、非連続を考えるときの構造の保存(延命)のされ方、ミイラ(ベールによる隠蔽)、ゾンビ=ホルマリン(腐敗、経過に対しての抵抗)、フランケンシュタイン(つぎはぎによる新解釈)が考えられる。

今風呂でこれだけふっと涌いた。

今日は母とインセプション観た。その前にゼーガペインと四畳半神話体系(どちらも途中)観たからすごいわけ分かんない、そしてわけ分かる。
フロイトちょっとでも齧って良かった。抑圧されたものの回帰とかトーテムとかオイディプスコンプレックスとかのネタが分かって楽しい。
今日は少し寝て、思想地図読みに早稲田にでも行こうかな。でも多分行かない。